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2019.06.07

ティール組織の代表例、株式会社森へによる「森のリトリート」

以下の文章は『幸せの日本論』(角川新書、2015年)の一部に加筆修正したものです。

「森へ」の体験とは何か?

「森へ」という名前の会社があります。代表取締役は山田博さん。株式会社森へとは、読んで字のごとく、人々に森へ行く体験を提供する会社です。彼が幼い子どもだった頃の那須の山での経験や、ネイティブアメリカンの教えを学んだ経験、教育業界での仕事の経験から、彼自身が編み出したやり方です。

森へ行くツアーの基本は2泊3日。いずれも、6人以内のグループで山中湖などの手つかずの森に入ります。静かな呼吸、静かな歩みで、ゆっくりと森へ入っていきます。森に入ると、おのおの、何かを感じる自分の場所を見つけ、そこに数時間くらい留まり、1人で過ごします。時間が来たら集合して皆で対話します。基本的に、これを3日間繰り返す、という日程です。

私も、何度か体験しました。

「森なんて、遠足で行ったことがある」くらいに思われるかもしれませんが、手つかずの森に自分だけがいて、長時間、じっと森と対話するという経験は、都会人の想像を遥かに超えた斬新な体験です。1人で静かにじっとしていると、いろいろなものが見えてきます。日頃は都会で細かいことは観察せずに急いで暮らしている私たちが、いつもと違った開いた心と体、静かな呼吸で森を歩き、五感を鋭敏にして風や鳥や虫の音を聞き、木々や苔や土のにおいを嗅ぎ、何か自分に響く自分だけの場所で、1人になって静かに森と対話し、手で古木の苔に触れたり、裸足になって落ち葉の上を歩いたりしていると、森の豊かさがよくわかります。日本は美しい。

じっと見つめていると、色々なことが見えてくるのみならず、ヒントに満ちています。手つかずの森は、若い芽から古木・倒木までが共存し、いろいろな木の葉が多層になって天に伸び、倒れた木に苔やキノコがはえ、虫が舞い、這い、風や雨が音を立てる、まさに多様性と共生の世界。自分は協創システムの一部であるとしか考えようがない、圧倒的な調和の世界。

生命のヒントに満ちた世界

最初に山中湖の森に入った時の私のメモには「自分がこの世の一部であるということ以上に、何を望む必要があろうか」と思わず書いていました。もう何も要らない、ここで死んでもいい、というくらいの至福でした。衝撃でした。森に入ったそれぞれの人間の課題に対する回答がすべて用意されているといっても過言ではないくらい、生命のヒントに満ちた多様な共生の世界です。

那須の森に行って、1人で小一時間森の中で過ごしたときのことを以下に述べます。

晴れた冬の日。まだ倒れてからそんなに日が経っていないと思われる大きな倒木の根元の雪の上に寝転がって見上げると、強風の中、まわりの木々が寄り添って揺れながら人間を見下ろしているようです。木々はみんなで枝を広げ合いながら光を巧みにシェアしています。まるでパズルのように、ちょうどみんなが光に届くように、それぞれの木が枝を広げています。そして、私の真上、すなわち、かつては倒木が枝を広げていたはずの場所だけ、すっぽりと青空が見えます。その空間に向けて若い木々が懸命に枝を伸ばしています。

つまり、自然は、循環する開放システム。あらゆるものが意味を持っている。共生しているからサステナブル(持続可能)。多様だからロバスト(頑強)。そして、もちろん、人間はその一部。私たちは抱かれている。

そんなことを想いながら木々を見上げていると、日本というのは森のような国なんだと思えてきました。もちろん、そうではない部分もあると思うのですが、私が『幸せの日本論』で述べた、中心に無があり、それを知らないかのように過ごしているけれども全体として調和している国というのは、森のような国ということではないかと思えてきたのです。

日本とは森のようなシステムなのではないか?

日本の思想の元となった神道はもともと自然への畏敬の念から発生したものですから、神道と森が似ているのは納得がいきます。また、日本思想の2つめの中心である仏教の諸行無常、諸法無我、涅槃寂静は、「自分がこの世の一部であるということ以上に、何を望む必要があろうか」と同じ意味です。すべてのものが移り行くこの複雑系の世界の中で、自分はそのほんの一部として生かされているに過ぎず、それを実感する瞬間に心は澄んで何の迷いもない。いや、心すらない。自然との合一です。

日本の武道や茶道も森と似ています。武道では、力づくではなく相手の力を利用します。茶道では、静けさとシンプルさを味わいます。これらの相互依存性も、森のようです。

森は私たちを無限の優しさで抱擁してくれるようであり、動植物たちは無自覚的に雑居しているようです。しかも、調和が保たれ、豊かに成り立っている。

日本の国土の70パーセントは森林です。それが日本人の心に影響したのか、日本人は、国民のありかた自体が森のようなのではないか。

森から帰ってきた次の日に書いたのが表1です。

『幸せの日本論』を書いたのは2015年。フレデリック・ラルーの『ティール組織』日本語版が出版されたのは2018年なので、表にはティールという表現をしていませんが、明らかに、左側はティール組織やグリーン組織の特徴、右側は、レッド組織、アンバー組織、オレンジ組織の特徴です。

表1の左側は、全体が調和していて共生する森のような社会。日本がこうだったら最高だと私が思う、目指すべき日本のモデルです。ただし、日本が既にこの理想に到達しているかというと、むしろ現代日本は昔よりも右側のシステムになってしまっている面もあるように思います。そこで、あえて、日本型システムの理想型と書きました。

右側は、森のようではない、勝ち残りゲーム式社会モデル。近代西洋型のモデルです。もちろん、近・現代型の社会には調和や共生が全く無いというわけではありません。この対比は、話をわかりやすくするための極論だとお考え下さい。あえて典型的な近・現代型システムと書いているのはそういう意味だとご理解下さい。

また、森にも生物たちのサバイバルゲームは繰り広げられていますから、森は右側のシステムにも似ているのではないかというご指摘もあるでしょう。確かに、調和に見える森の均衡状態は、競争の結果としての共生です。過酷な生存競争の結果です。しかし、まわりをみんな蹴落として自分だけが勝ち残ろう、というタイプの競争ではないですよね。みんなの良さを絶妙に活かし合うような、相互依存的な相互作用の中での、調和的な均衡。湿潤で温暖な日本の森は、乾燥地帯や寒冷地帯とは風土が異なり、多様性が高く豊かです。

株式会社森へが提供する森のリトリートも、そして、株式会社森への経営も、左側の調和型です。森のリトリートの経営について詳しくは触れませんが、何か経営上の判断に迷ったら「森だったらどうするだろう?」と問うという会社です。

森ではみんな「ありのまま」

さて、2019年春に山田博さんから「森のリトリート」について伺ったので、その言葉を紹介しましょう。

「森に何度も入っていて、あるとき気づいたんです。森では、誰も躊躇していないということに。人のことを気にして悩んでいる鹿はいない。飛び方に悩んでいる鳥はいない。ありのまま。みんなやりたいようにやっているのに持続している。そして、森では、すべての者は他の者になろうとはしていない。ハエは蝶になりたいと思っていない。小さな花は、背の高い杉になりたいと思っていない。誰も比べていないんです。」

動植物は人間ではないので、人間のように比べないのは当たり前といえば当たり前なんですが、そこに気づかせてくれるのが森なのです。

「一方で、人間は、生まれて少し経った時に、私と世界は別のものだと気づく。そこから、比べたり、競ったりしてきた。みんな、自作自演のドラマを演じてきた。精密に、繰り返し、演じてきた。実は違うドラマも演じられるんだと気づかずに。これに対し、森に入ると、ありのままでいいんじゃない? ということに気づけるんです。」

人間の人生も、自分(自らを分ける)で分かる(わける)ことの歴史ですが、人類の歴史も、分析し、分割し、分断して、表1の右側の在りように偏りすぎてきた歴史なのではないでしょうか。

「考えたことは、批判できます。お前の考えは違う、と。でも、感じたことは否定のしようがない。だから、安心なんです。森でリラックスし、安心することができると、みんな、感じることが違っていていいんじゃない? ということに気づけるんです。」

まさに、ありのままに因子(第4因子)ですね。そして、森に入ると、本来の自分を取り戻せます。やってみよう(第1因子)と思えます。人や自然とのつながり(第2因子)を取り戻せます。だから、なんとかなる(第3因子)と思えます。森のリトリートは、まさに、人が幸せになるための活動なんです。

※参考
幸せの日本論 日本人という謎を解く (角川新書)
前野隆司著

https://www.amazon.co.jp/dp/B00VR50ZNY/

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